始めての方へ。

私達の活動にお手紙が届きました。まず、読んでください。涙無しでは読めない内容です。







こんにちは この度は支援・救援物資を私共の所へお送り下さり本当にありがとうございました。
あの日(東日本大震災3月11日)私は娘(18才)と一緒に自宅に居て一気に入ってきた津波に飲まれました。
娘と2人でなんとか部屋から脱出し屋根に登り死を逃れましたが、平屋の天井まで達した海水は
直ぐに引く事はありませんでした。娘と2人で屋根に登りパニック状態で呆然と立ち尽くしていと車や畳など
ガレキと共に見知らぬオバちゃんが「助けて下さーい!」と・・・
娘と2人でどうにかオバちゃんを引き上げましたがスカートの中から大量な血が流れ出ていました。
ずぶ濡れで何ひとつ無い私達にはどうする事も出来ず、それでも3人は体を寄せ合い寒さに耐えようと必死でした。
気がかりは、すぐそばにある実家に残して来た私の息子(4才)、父母、祖父の安否でした。
     
心配しても屋根すれすれまで津波の水が来ているのでどうしようもなく、ただただ大声で家族の名前を叫びましたが
津波の押し寄せて来る音にかき消されました。
そうしている間に吹雪です全身濡れている私達の体温はみるみる内に奪われていき
体を寄せ合っていても温まる気配は全く無し。大量の出血をしていたオバちゃんの意識も怪しくなりつつありました。
大吹雪に見舞われ、それが止む頃には今度は暴風で、その頃には辺り一面闇に包まれ始めました。
寒さの限界に達している私達は激しい震えと眠気が交互に襲い、このままでは凍死するかもしれない・・・と
娘と2人「しりとり」をして意識が飛ばない様に必死に続けました。
その頃にはオバちゃんは力尽き屋根に寝転んだ状態となっていました。話し掛ければなんとか返事が出来る状態でしたが
自分で起き上がる気力は無かったとおもいます。
「朝になったら誰かきっと助けてくれるから!!」「オバちゃん頑張ってよ!」
そう激を飛ばしている私達親子でさえ、半分死にそうな状態でした。大量に出血しているオバちゃんは
「せっかく助けてもらったんだけど、私・・ダメみたい」「ごめん、先に逝かせて・・」と
数回言った後イビキをかき始めました。
 
私は内心(オバちゃんは助からないんだな・・・)と思い、娘にそっと伝えました。
その間も寒さは増していく一方で娘の靴が凍り始め・・・吐く息で髪の毛が凍り始め・・・
激しい震えと眠気が止まる事はありませんでした。真夜中には風も止み、今までに見た事もない様な星空でした。
ここ石巻、私の住む家は海から700m程しか離れていない為 
海岸沿いにある工業地帯の灯が一晩中光っていて夜でも明るくキレイな星空を見ることはありませんでしたが
あの日の星空は憎たらし程輝いて、一生あの空を忘れる事はないと思います。
何十機ものヘリが飛び交い、何度もライトを私達に当ててくれましたが最後まで助けてもらう事はありませんでした。
ライトが当てられる度に「助けてー!」と叫びましたが、ヘリが素通りしていく度に絶望感で一杯でした。
夜が明けるまで本当に長い長い時間を娘と2人で耐え、やっと朝を迎えました。
朝、胸の位置まで水位が下がった頃、
水に浸かりながら歩いて来た男性に「そこに居たら危ないから降りて来い」と言われ
その男性に抱きかかえてもらい屋根からベランダへ降ろしてもらい、
胸まで水に浸かり道路向かいにある老人施設に保護してもらいました。

道路向かいに歩いている途中、実家の方向を見ると父がベランダに居たのです。
嬉しくて大声で「私達は大丈夫だからねー!」と叫びました。その声を聞いた父の返答は・・・
「お母さんと●●(息子)は!?」
・・・それを聞いた瞬間 まともに立っていられない程のショックでした。
実家に一緒に居たはずの私の息子、母、そして祖母・・・
その3人は多分もう居ない。大声で泣き娘と2人で抱き合っていつまでも泣いてその日は、そのまま老人施設で過ごしました。
ショックと寒さの震えが抜けず一睡も出来ず次の朝を迎え太ももの位置まで海水が引いたので急いで実家に帰りました。
父に会い、津波の中 祖母のは父の腕の中で息を引き取った事を聞かされ、私の息子と母は
最後に父が見たのは「バァさんを頼むからね」(祖母は半身不随でした)と叫び、
息子を背負って廊下を走って行ったと言うのです・・・ですが、2階に逃げ切れず津波の犠牲になったと思うと、、、
 その日、家の中を父と私と娘の3人で居なくなった息子と母を捜索しましたが、捜索もなにも・・・
畳が一番上に乗っていたりタンスや物が散乱し、3人ではどうしようもなく一日が過ぎてしまいました。

廊下を走って行ったと言うので階段付近を何度も探したのに見つからず・・・
そしてあの日から4日目の朝、父が明るくなったと同時に捜索を始め、間もなく「●●がいた!!」と。
その声に慌ててその場に行くとガレキと畳の下敷きになった息子が・・・その手をしっかりと握りしめて母の手がありました。
母は最後まで孫の手を離さずに居てくれたんです。私は、その冷たくなった息子を打き抱え、大声で「●●!!●●!!」と叫び 
時を忘れる程 声も枯れる程 泣き続けました。冷たくなってはいるものの顔を見れば、ただ寝ているかの様な顔で・・・ 
少しも苦しんだ様子はなかったのが救いです。それは母の顔も同様でした。「●●」と呼んだら「おはよう みいちゃん」
と今すぐにでも目を開けて言いそうな顔で・・・親バカですが天使なような顔でした。
津波から4日目で遺体の発見。そして1週間後には火葬もして頂きました。
私の家族が火葬をしてもらえた最後の方なので 後から発見された方々は皆、土葬にされています。
  
家の中で遺体発見、火葬をして頂けただけでも まだ良しと思わなければ、
まだ見つかっていない家族を探している方よりもマシなんです。
最近では自衛隊やボランティアが来てくれてガレキの撤去が進み ずい分と片付いてきました。
ちなみに本日4月27日にも(自宅の)庭から遺体が出ました。
庭から4体、裏から4体の計8体の遺体が出ましたが、全て身元不明者です。
まだガレキに埋れている方も居ると思います。早く見つかり家族の元へ帰れる事を願っています。
私の家族は2階があるので避難所へは行かず 
1階は全滅していますが2階の部屋だけはなんとか無事ですので、そこに寝泊りしています。
最近、避難所では物資が余って来ていると聞きますが、私達みたいに自宅にいる人間には全然足りてない状態です。
全ての物が津波で流されて水没し、一日一回の配給も何日も前の日付の 
おにぎり、パン、それとたまに缶詰の支給があるだけです。 

以前はカップメン等も支給されましたが 避難所で物資が余っているとテレビで報道されてからは
大企業からの物資が送られなくなったと聞きました。避難所生活の人たちばかりが報道される中、
私達のような人間はどんな生活を送っているのか皆さんに伝わってないと思います。
生活用品の全てを失い、今回、この様に皆さまから物資を頂いて心より感謝しています。
皆さまから頂いた物は近所の方々と分け、大切に使用させていただきます。
本当にありがとうございました。皆さまからの激励の言葉を支えに家族、
ご近所の方と共に力を合わせて頑張って行こうと思っています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

この方は、避難所暮らしの方に無料で自分所有のアパートを貸してあげたいという事で
私たちは、この方の所有アパートをボランティアで修理しています。
水没したアパートですが、一生懸命修理しています。職人さんも無給料で働いています。

又、この近隣の方達にも支援物資を送り続けています。

活動状況はコチラで紹介しています >> がんばれ東日本! 建築支援活動 Facebook

このような方に支援物資を届けたい方は、お問合せください。必要とされているもの、送っても不要なもの、
又は物資の片寄や重複のないように出来る限りアドバイス致します。

このページの左下の「募集内容」をご覧いただき、出来る事があればご協力お願い致します。